2017年から取り組み、

今年の3月の黄金町での展示にて

いったん完成版を公開をした

『In A Mere Metamorphosis』の

トレイラーを公開しました。


メニューの Film works よりご覧いただけます。



展示時は、コロナの感染対策のためと思い、

同時刻帯に来場者が集中しないよう

プログラム制を取りやめ、

一人一人がどんな時間に来ても

映像の冒頭からフルで視聴ができるように

一人用の視聴装置を用意して展示していました。


その装置はレンズ越しで見る仕様になっていて、

大きな虫眼鏡越しの映像は四隅が湾曲しており、

見る人の体が揺れるたびに、レンズの画角もズレて

映像の歪みも揺れ動くようになっていました。



その「自ら覗き込む」「偶発的に歪む」というスタイルが、

よりこの作品の意図に沿っていると感じましたが、

映画祭やシアターなどでの視聴では

この装置を設置することもむずかしいし、

また感染症対策のためには

不特定多数が顔を近づけるような装置は適さない

作者チームで直接、つきっきりで管理しない限り難しい

というような問題もあって、

すんなりいかず、

ぼーっと考えていました。


シアターなどの完全受動的な視聴環境でも

どうにか同じ演出効果が得られるようにならないかと。


ぼーっと考えていたら、

つい最近になって、

水面越しに再撮影する形で十分だ

という決意?が固まり、

ふと思い立って再撮影した更新版が、

本日あげたトレイラーです。



ずいぶん時間がかかったけど、

2017年に作り始めた時にやりたかったことは

ひとまずこれで全部形にできたかな、と思います。


作り始めた当初は、

こういう形で東京オリンピックが無くなるとは

想像していなかったなぁ。


「そのままあり続けると思っていること自体が儚く危うい」

という副題みたいなものは最初から感じていたけれども、

ここまで時世がうねるとは。



新千歳空港国際アニメーション映画祭の、

ショウケースでの上映が決りました。 ネット上で鑑賞できるようにしてもらえる予定です。 ほか、来春から夏にかけて、3件の展示が控えています。 現在鋭意制作中です。 生活面での近況としては、

最近トランポリンを趣味にしました。

トランポリン教室も行ってみたし、

家用のトランポリンも買いました。

ウォールトランポリンとか、宙返りとかに憧れていますが、 それらが遥か彼方の次元の話であることは 先日の体験トランポリン教室(たったの1時間)での

へっぽこぺこぺこな習得率と、

その後3日間も続いたバキバキの筋肉痛により

一寸の曇りもなく、清々しいほどに思い知った所存です。 ちょっとずつやろう。



先の記事に書いた放送大学での勉強は、

気が向いた時にまとめてがっと読み込んでいる感じです。

好きな間合いで学べるのは性に合ってるなと感じながら、

前期がわりと良い成績だったので、 調子に乗って、後期は前期よりも2科目多く、

しかも論理的思考だけでは解けない

歴史系の科目ばかりを申請しました。

さて全ての単位をちゃんと取れるのでしょうか。 せっかくなのでA〜A丸は取りたいものですが果たして。



最近は、そんな感じです。


今年度から、放送大学で心理学学んでます。

全科履修生、2年編入です。

 

コロナの気配がする前に入学申請して、

新年度始まる頃にはすっかりステイホームでしたが、

それでも元々放送大学はオンラインが主体なので、

何の影響もなく新学期を迎え、

申請したすべての講義を受講でき(面接授業はいきなりは取らなかった)、

いま中間試験の提出期間なんですが、

もともと郵送で答案を提出するものなので何の混乱もなく。

期末試験も郵送形式に変更になったくらいで、

それでも中間テストの様式をそのまま適応するだけのようなので、

すっきりしています。

 


心理学、中学くらいから元々興味はあったけど、

「心理学に興味がある=本人が心を病んでる」みたいな偏見を

父母ががっつり持っているタイプだったので、

その道に進むことはなかったんですが、

一応学部が教育だったので発達心理学とかは一瞬かじって、

それなりに面白そうだなという発見はしていたものの、

それでもそのあとは枯渇した環境の中で

実技で評価されて描くことを仕事にしなければと急いできたので、

たまに新書を買うくらいで本格的に心理学を学ぶことはなく30代に入り、

ただただ仕事と制作に踏ん張りながら暮らしてきたんですが、

最近はもうアニメーション制作とか絵を描くことだけで生きていく

イメージが掴めなくなってきたので、

興味を持って知識や論理を身につけるところに立ち返るべく、

思い切って本格入学してみました。

 


本格入学と言っても、仕事は続けられます。

そこがすごくいい。

放送大学がもともと色々な生活形態の人が入学できることを

視野に入れて構想されていることもあって、

また考えてみれば大学生がアルバイトする余裕があるのと同じように、

仕事は続けながら学べるところが放送大学ほんとに便利で。

放送もネット上からいつでも、

どの回の講義でも見る(聞く)ことが出来るし、

1講義25分とかで見終われるし、

無駄話とかないし、

端的で簡潔で明瞭ですごくいいです。

 

印刷教材も、

まず形が揃っていて学ぶのに扱いやすい(笑)し、

章ごとにちゃんと出典が書かれているので

自力で図書館で調べることもできるし(コロナが落ち着いたらね)、

中間試験も郵送形式でマークシートが最初から届くので

答え次第期間中にいつでも出せるという合理性もなかなかよくて。

 


もちろん研究者の話を直に聞くという機会がほぼないのは惜しいけど、

それも面接授業を申請すればできなくはないし、

仕事しながらでも全然進められちゃうのは本当にメリット。(学部はね)

 


あと学校って友達ができるのはとてもいいけど、

学ぶ場に関しては、

服装だとか、

机に出していていい食べ物や飲み物が何だけだとか、

何分遅れたとか休んだとか休講だったとか講義室変更だとか、

もうそんなのが超超超億劫で。

先生のコンディションで講義の密度が変わったりっていうのも、

先生のデジタル習得度で教材の見易さが変わるのも、

マイクに雑音が入るとか、

声が遠いとか、

黒板綺麗に消えてないとか、

寝てる人や携帯いじってる人見つけちゃったりとか、

細かいところだけどいつもめちゃめちゃ気になってしまっていたし。

(非常勤もやっていて自分も前に立つ側として思うけど

 先生側としてコンディション整えるの超大変)

でも放送大学はその煩わしさが一切ない。

 

現状とても満足しています。

 


ひとまず錯覚から入って視覚認知系を一通りやって、

あとは乳幼児を含めた発達心理系と諸教育系も踏まえておき、

ついでに経済心理学や社会方面の諸分野もかじりながら、

心理調査法を身につけて、

また視覚認知系に戻ってきて、

卒業論文書いて、

できれば修了論文も書いて、

それからアニメーション作画における認知までたどり着きたいと思ってます。


論文書いて学士取るところまではいけると思うんだけど、

修士まで視野に入れないとほとんど何にもできないで終わっちゃうだろうな、

そしてそれでも足りるか?

という感じなので、

一応博士も視野に入れようと思っているけれども、

それも運が良ければという感じ。

で研究にあたり1人では限界があるので、

仲間を見つけなければならないことと、

藝大では心理調査が扱えないとのことなので、

拠点というか母体としては心理学系の大学に籍を置くことを

考えた方がいいんでしょうけど、

何せ全くと言っていいほど心理学の界隈とつながりがないし、

UchuPeopleとの両立が前提にあるので、

これから考えつつやっていこうと思います。

 


視覚認知や各発達段階に向けての有効なアニメーション表現が

的確に操れることは、

仕事としても色々と面白い可能性を秘めていると思うので

前向きに習得と発明を目指しつつも、

それもTPOだし、

冒頭の偏見の逆で、

心理学というコピーがついただけで変に期待されることも、

変に期待させることも避けていきたいので、

そこは念頭に置きながら、

広い視野を持ってミクロな精神世界を浮遊していくことは、

今までと変わらずやっていく予定です。

研究者としてバリバリやっていくわけではないと思うけれども、

制作しながら少しずつ進むタイプになれればなと。

 


にしてもおそらく、

生まれて初めて自分でちゃんと興味を持って選んだ教材を

真剣に読むということをしていて、とても楽しい。

まともに勉強してるのまじで中2以来。

あの頃の動機は

「家を出れる自立した人間になりたい」

っていう危機感だったけど、

今は楽しいが一番。

 


あカウンセラーに転向とかはしません。安心してください。(?)

  • Onohana

4月13日から5月12日まで、

岩手県盛岡市の Cyg art gallery さんにて

ドローイングの小作品をまとめて展示していただいてました。


今回は、GWの期間をまるまる包み込んでの

単独開催とのことで、非常にありがたい機会をいただき、

すでにたくさんの方にお越しいただいてるようで、嬉しく思います。





今回の展示のコンセプトは、

『日記』と『想像する相手』です。


『日記』は、SNSからイメージを得ています。

Twitterやfacebook、instagram、TikTokなど、

短い文章や、画像や映像で、自分や日々を綴ることが一般的になりました。


それと同時に、

各種のニュースとか、電車の遅延の情報とか、

迷子のお知らせとか、今月の県内の事故件数とか、

営業の電話とか、道路脇の生花とか、

そういった、形式の先に生身の人が存在する情報もあふれています。


それら全ての中にいる「ひと」について、

友人知人のように親身に想像することはあまりないと思います。


あふれすぎた情報は受け止めきれなくなるし、

心はさらに柔い。


ただ、役割と重要度によってフィルタリングしたとしても、

自分にとっての「知らない人」が

「知るに値しない人」だとか、

「知るほどのきっかけが生まれない人」

「重要度の低い人」だとは誰も言えません。

まして「存在しない」とも。



それは『見る』ことの力が左右する世界です。


『見る』は、ただ視野に入ってくるだけのことではありません。

視野に入っていても、「それはなんだ」と意識しなければ、

存在を見逃している本人にとっては、いつまでも

「感じ取れないもの」「存在しているように見えないもの」です。


『見る』とは、

存在を意識し認め、考える、想像するという

積極的・能動的な行為だと考えたら、

「どう見ようとするか」がいかに重要かが、

なんとなくわかると思います。


目に入ってきた、接触があった、だから見た、知った、という、

受け身で世界を見るのではなく、

積極的に世界を見ることで、

積極的にその人を人として見ることで、

人はお互いを人として存在させることができるというのは、

あながち本当のことだと思うのです。


そう感じながら、同時に、

「見たいもの」だけを「見る」ことの危うさ、

自分の知る範囲の中だけで『見なす』ことの危うさも、

感じ取らなきゃなりません。


「不謹慎」「無愛想」「非常識」「不適切」「不親切」

そういった言葉を用いて『見なす』ことはとても簡単です。

ただそれらは、主観と形骸化した価値観から

切り離しきれないことを意識しなければなりません。


その認識は本当に「見る」ことを怠らずにして導き出されたことなのか、

それとも「見ない」ことで単純化・矮小化させて断定したことなのか。


どこまでもどこまでもせめぎ合いながら、

つかみどころのない世界まで、

その探求は続いているはずなのです。


だって自分は自分にしかなれないから。

自分の視野しか持てないから。


自分には掴めない、掴む権利のない領域まで、世界は広がっている。



そう考えると、

「知らない人」も、私と同じ世界にいることを

なんとなく前よりちょっとリアルに感じられませんか。

ませんか。


誰かにとっての私が、そんな「知らない人」であること。

私にとっての「知らない人」が、

「知らない人」にとっての「自分」であること。


『想像する他者』が、誰かにとっての自分であり、

世界であること。



そんな気持ちで制作しました。



この考えは、物語アニメーションを作るときの心構えそのもので、

私の作品はよく「自己表現」だと誤解されやすいのですが、

実はむしろ「他者」と向き合うことで世界を見つめていくやり方です。


世界の中にはもちろん私も存在しているので、

わざわざ世界から私を取り除いて考えることはしないものの、

あくまでも自分のことや気持ちを表現しているのではなく、

「そう感じる人がいる」という世界を描いています。


アニメーションでは、演技・動かしをするので、

自分がその他者になりきることで、時間表現を紡いでいきますが、

今回は、ドローイング。


あくまでも、たくさんの「知らない人」を、

影から読み取っていく、見ようとしていくという作業ができました。


誰かモデルがいるとか、

自分のエピソードが混じっているとか、そういうものはありません。







そのため、不思議なものですが、

私にとっても、あのドローイング群は、

親しみのある風景とか、思い入れのある言葉とか、

フェチズムが反映されているものとかではなく、

つまり「私の作品」「私の人たち」という気持ちよりも、

あくまでも「ちょっと知ってるくらいのたくさんの人たち」という感覚があります。


私自身が人見知りの傾向もあるので、

むしろなんかちょっと後ろめたいくらいの感覚で。


それくらい明確に「他人」という気持ちが芽生えたということは、

試みは成功しているのかなと感じるのです。

自分の実感としてです。



「見たい」とか「見たくない」に左右されないように、

描写技術的な趣向は出来るだけ凝らしませんでした。

特徴を無くしたかった。形容しがたい絵にしたかった。

時間をかけて拵えたものにしたくなかった。


「知らない人」を描くのに、

描く私が「このディティールが好き」とか「美しい」とか

そういうものを頼りにしてしまったら、全部淀んでしまう。

人格がフィルタリングされてしまう。


だから、あくまでも何でもない「かげ」と「ゆらぎ」で描きました。

「絶対に誰か」なので、私が「誰である」と特定しないように。





『日記』と『想像する他者』というコンセプトの中で、

特に約90点のフレーク作品の方は、

「1日を振り返って200文字くらいでまとめた日記」で、

12点のフレーム作品の方は、

「対話をしている30秒間」というイメージです。


なので、フレーク作品の方がちょっと

「語り」の雰囲気が出ていると思います。

フレーム作品の方が刹那的なはずです。

瞬時の対話の方が、振り返って認識するよりも

曖昧なまま流れていくと思うので、

抽象度は高くなりました。



私が今回達成したかったのは、特に後者、

フレーム作品の方でした。




先の秋に石神の丘美術館さんで、

抽象風景のドローイングとアニメーションの過去作の展示をさせて頂いた時に、

「私のドローイングはあくまでもアニメーションになる前提を持った

 未完成のイメージボードでしかない」

という感覚にぐわっと飲まれてしまい、

前後のコマに繋がる必要のない、

1枚で成立している、存在できるドローイング作品を作らねばならない

と、何故か焦ったのです。


多分、動かすということに依存したくなかったんだろうと思います。

表現したいことが技術を選ぶことはあっても、

技術のために表現の内容を変質させたくなかった。



だから、今回Cygさんでドローイング展をやらせていただけて、

このフレーム作品12展を描くことができて、

ひとつ達成感がありました。

あのフレーム作品の世界は、あのフレームの中からだけ見えるものです。

それがアニメーションを経由する必要なく、世界につながっている。

それが今回の理想でした。






この絵は、アニメーションにする必要がないなと感じています。

「人を見る」という行為そのものをドローイングとして昇華できた。現時点での。 「人を見る行為」は、

私にとっては作る行為、表現することそのものであり、

私の物語アニメーションを作る原点であって、

同時に、世界に存在しようとする意識です。





Cygさんでの個展、今週末12日で最終日となります。

グッズも並べて頂いています。


ぜひお越しください。



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小野ハナ個展

「ぼくと魚」


2019.4.13(土)‒5.12(日)

11:00–19:00/水曜定休


Cyg art gallery


入場無料



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