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    • Onohana
      • 2018年5月7日

    ちょっとずれる


    先日発表があり、

    芸術文化振興基金に、私の新作の案が採択されました。

    以前「such a good place to die」で利用した助成金制度です。

    such a good place to die には、

    いくつかの映画祭に連れて行ってもらいました。

    コンペという形も少しですがあったけれど、

    企画展など、一度きりのコンセプトのプログラムに

    いくつか入れていただけたことは喜びでした。

    次の新作も、色々な場所で色々な人に触れてもらえるように、

    そしたらその人の世界が少し変わることがあるように、

    完成目指したいと思います。

    それと、映像作家100人 2018 に選出していただきました。

    今年から雑誌としてではなく、webを主媒体として

    会員制映像アーカイブになったようです。

    (ログインしなくても選出作家とその作品一覧は見ることができます)

    映像作家100人は、てっきり

    カルチャーや最先端技術に感度が高い業界の人や若者の世界にあって、

    なんというか、簡単に形容するなら、

    渋谷や六本木が似合うような活動をしている人や、

    最前線の映像制作会社にお勤めのディレクターさんなどが

    選出されるものだと思っていました。

    私の活動はそれとはちょっと違うのかな、と思っていたので、

    今年の選出には驚きましたが、

    違った毛色の自分も入れて頂けて嬉しく思います。

    ところで、

    私は小さいころから、球技が苦手でした。

    球技とひとことで言っても、

    「ボールを一回掴まなきゃいけない球技」が苦手です。

    「当てて跳ね返す球技」はだいじょうぶです。

    中学はバレー部でしたし、卓球もバドミントンも好きです。

    先日、スポーツ全般は割と苦手意識もなく大好き、という人と

    ひょんなことからスポーツの話題になり、

    「掴まなきゃいけない球技がダメなんですよ、」

    と話しました。

    「ボールの位置や角度とかスピードとか、

     掴み方とか掴む時の指の位置や体の形を考えている一瞬の間に、

     もうそこにはボールが無くなってるんです」

    そう言ったら、

    「おぉ、哲学的だねぇ」

    と言われました。そうか、哲学の窓を開いていたのか。

    そのかたは、

    「自分はそんなこと考えずに、何気なく出来ていたからなぁ。」

    と仰っており、

    あぁ、身体を動かす時に、毎回図解などしないのだなぁ。

    と新鮮な気持ちに。

    じゃあなんで「当てて跳ね返す球技」は大丈夫なんだろう。

    軌道は一瞬の判断で決めなくても見えるし、

    持ち手の形を毎回思いつかなくても大丈夫だからだろうか。

    多分、「掴む競技」も、

    一回構造を理解したら、

    作画はできると思うんですよ。

    自分の体でプレーはできないと思うけど。

    その作画の身体は誰なんだろうね…


    • Onohana
      • 2017年10月19日

    暮らしと視野と選挙の備忘録


    選挙前なのでいろいろ素には無いことを考えることも多く、

    それも人の一面を知るのに濃ゆい期間でもあるので

    自分で忘れないように書いておく

    私の周りは反安倍の考えを持つ人が多い。

    「反安倍」と言っても、本質は「打倒安倍」ではない。

    文化研究や普及の職に就いていたり、作品を作っていたり、世界中に友達がいて、

    日々実際に、現場で、自由と世界平和と歴史とともに生きている、暮らしを営み続けている、手を動かしているからこそ、安倍自民の考える「日本らしさ」や「自由」「尊厳」などとは根本的に違う考えを、はっきりと持っている人たちばかりだ。

    私もその類だと思う。

    反安倍層の主張としてメジャーな印象のある

    「危うい芽を早いうちに潰そう」とか

    「まだ起きていないけどなんとなく不安だから抵抗しよう」

    という意識の人はほぼいない。

    根本的な「人間についてどう考えるか」という部分で、

    自分なりの確固たる考えがあって、その上でNOと言っている。

    根本的な部分がことの要だと考えているから、各法案や予算の方向性などの表層的な部分へのYES・NOでは話にならないところがある。ここに与党支持の人が

    「じゃあ現状からどう改良するか具体的に提示しろよ野党」

    と提案したところで、哲学は揺るがない。

    「改良?何言ってんの?」となる。

    安倍自民が組んだ骨組みにどんな肉付けをしたいか、そぎ落とせば良いのか、そんな肉付け部分のみを選べれば満足するような話ではなくなっているという認識がある。

    こんな反応のことは、与党支持者からしてみれば「ふわっとしていて具体性がない野党」に見えるだろう。でもそうでもない。

    こまごまとした政策や予算の方向性への考えはそれぞれにちゃんとあって、

    まずそれを議論するために専門家の研究や知識を踏まえてじっくりと時間をかけるべきだ、という考えをしっかり持っている。

    そしてこれはむしろ与党よりも慎重で明細なものを望んでいる。

    私も含めた身の回りの反安倍層には、少数派を恐れない人が多い。

    自分の目で見て、自分の身体で動いて、自分の知恵で考えて生きて抜いてきた人が多い傾向はあると思う。ユーモアがあってタフな人たち。

    そういう人たちは、メジャーなものに安心感を持っているという事も特にない。

    だから、議席が少ないところでも、長い目で見て(いろんな人がいろんな流れの中にいることを想像しながら)、今回の選挙ではまずは、姿勢が信頼できない安倍政権にNO示すための選択を取ろうとしている。

    自民党に投票している層の中の、政治に詳しくない人・自分の生活の中に政策が直結していない人・メジャーなものに安心感を覚える人、そんな「普通の暮らし」を営む人にとって、有名で人数の多い自民以外は選択肢に上りもしない中で、いかに安倍政権へのNOを「形にするか(席数に繋げるか)」というのが、反安倍層にとっての課題であって、理想の党に投票すれば良い問題ではない、と見ている人は多い。

    そもそも「理想の党」だ、などと盲信している人が少ないかもしれない。

    あくまでも、取るべき姿勢を取っている。

    与党ほど個々の具体的なものが見えている段階なわけがない。

    その個々の政策を導き出した、骨組みの部分から、理念の部分から整え直そうとしているのだから。議論の姿勢を変えて、そのあとに個々の具体的な時期を出していくべきだと、そしてそれには時間がかかることを、承知している。

    その先を見越して、小さくても野党の中で選択をする。 今後、徐々に議席が増え、政党として育ったら、

    ようやく具体的なところを議論していけることを、もちろん期待しているだろう。

    具体的な段取りを提示しないからといって、

    「安倍に対する無闇な反抗」をしているわけではない。

    政治の動きの全体を把握する事は難しい。

    普通に暮らしていて政治と関係のない仕事をしている個人にはなおさら難しい。

    情報収集は自分の視点から手繰られたものになってしまう。

    この自覚がありながら、しかし広くどんな人がこの国にいるのか、

    その人は何を考えているのかを、実感的に理解したいと思うと実にもどかしい。

    暮らしながら接する事ができる人の範囲なんて、選挙の時期だからと簡単に広げられるものでもない。ネットで探す糸口なんて、自分が見ようと思ってきたものの末端でしかなかったりする。「それでもある程度知ることができている」と言えるのは研究者のレベルにならなければありえないんじゃないか。

    自分が知らない世界を知ることの難しさ。

    どうにしろすべての人に暮らしがあり、流れがあり、

    選挙の時だけ突然ポッと現れる国民なんて存在しない。

    わかっていても、わかったと信じたい自分。

    感情にいつの間にか流されて論点がずれる、あるいは論点のズレをすべて感情が原因であると片付ける、そしていつまでも並行にいなしあう渦の中で敵対心に善意が焚べられていく。不毛に感じられる。

    自分の意見と違う人の話の理解には時間がかかり、実感はさらに遠くにある。

    多様性とは、面白いと思えるバラエティの豊かさの事じゃなくて、その遠い実感に思いを馳せて敬えることだろう。

    私も、例えばアニメーションを作りたい人間じゃなかったら、芸術を愛する人間じゃなかったら、生まれ育った家代々のお仕事にがっちり支持政党が存在していたら、今の流れとは違う政党を支持したかもしれない。

    自分の暮らしの中の流れは確実にあって、そこに具体的な政党が存在していたなら、それを選ぶことは自然なことだろう。

    どんな流れの中でも、それぞれは個人の人間なのだから、何を理想とし、どんな哲学を持つのかは自由であって、選挙においても、それを票に表す人がいてもいいし、票ではない方法で表しても良いと言い切りたい。歴史を知って、社会のあり方を考えて、投票にはいくことは重要だが、その選んだ政党でその人個人の何事も定められないと言い切りたい。

    私がどんな別の境遇に生まれていても、あるいは私の暮らしとはあまり縁がない暮らしを営んでいる人にも、同じように選択肢があることを望む。それを平らかに話せる事を望む。

    私の根本的な政治への向き合い方はこれで、おそらく全体から見れば、リベラルということになるだろう。

    そして改めて自分は、世界や、平和や、自由や、尊厳についてと、

    直接向き合う生き方、生業を選んだんだと実感している。

    そういう政治的自覚と並行して、

    権力や金の話自体が全然好きじゃないことも猛烈に感じている。

    今日はビーフハヤシときびなごの唐揚げです


    • Onohana
      • 2017年10月5日

    「とうきょう」の作画繋げました


    7月に展示をしてから、丸3ヶ月も経ってしまいました。

    すっかり遅くなってしまった。

    忘れてしまった方もいるのかも。すみません。3ヶ月あっという間。

    改めて、ご来場いただき、作画体験に参加していただき、

    本当にありがとうございました。

    制作過程に他人のイメージや行動を挟むこと、

    イメージが自分以外の領域へ向かって変化することに抗わないこと、

    そういう手放しにする実践させていただいて、

    アニメーションが何者だと考え得るのか、私がどこにいたのかを、

    改めて考える機会をいただきました。

    会場に設置した作画体験コーナーで、

    ゾウリムシみたいなミドリムシみたいなアメーバみたいな絵を

    作画していただいたんですが、

    あれはもともと「とうきょう」というただの文字でした。

    狙いとしては、

    「歴史認識の維持のむずかしさについて」、

    「現実の身体と想像された映像との差について」、

    「作画を体験してもらおう」

    が主なものでした。

    「とうきょう」と書き続けたつもりでもいつのまにか全然違うものに変わること。

    1枚描いたものが1秒のうちのどれほどの一瞬であるか、また、

    作画から連想された動きがどれほど素早く滑らかでも、作画する手は生身のスピードでしか動かないこと。

    それを実際に体験して、個々人のリアルタイムに

    落とし込んでみてもらいたかったんです。

    「なるべくそのままをなぞって下さい」と立て看板をしました。 なるべくそのままなぞる方もいれば、アレンジを加える方もいました。

    なるべくそのままなぞっても、

    紙を1枚隔てて見える影から濃度を完璧に再現することは難しいもので、

    1枚1枚はそれぞれ全然違う表情になりました。

    重なった紙の枚数によっても、なぞられる影は違うものが選ばれたかもしれません。

    会期2週間のうち、前半の金曜日くらいまでは、なぞられてある程度形が変わっても

    可読性のセーブが働いていたのか、それほど不思議な形にはなりませんでした。

    でも2度目の土日を挟んで以降の後半の会期では、

    可読性がどこからか解除されて、どんどん違う形になっていきました。


    これは会期最後の1枚です。

    最初の一枚の直後と、会期最後の1枚は、私が自分でなぞりました。

    なぞる、という意識と、「もともとあの形なんだよな〜〜」と思い浮かべる像とが、

    ちっとも交わらなくて、 ただひたすら「なぞる」に徹しながら、元々の「とうきょう」の形が

    物理的に溶けていったような感触を思いました。

    前の1枚を完璧になぞったとしても、 鉛筆の設置面や、筆圧、書き順、重心などで全く同じ絵にはならないという、

    手描き作画の非複製性を証明したくて設置しました。

    どんどんぶよぶよな形に溶けていくんだろうなぁと予想していましたが、

    「可読性」のセーブが働いて、しばらくは文字から離れない、

    というのは予想していませんでした。

    どんどん大きく広がって、紙の外にはみ出さんばかりに

    なるんじゃないかと思っていたのに。

    そんなに大きくなることはなく、サイズも可読性も保たれたシルエットが続き。

    「と」が「そ」になってまでもまだ文字のまま。

    文字に限らず、様々な形への認識にも多少、

    そういう体感的な理解の反映があるんだろうと思います。

    会場で展示していた『such a good place to die』の逆さま上映も、

    重心の認識は作画に現れていて、

    天地逆さまに作画して、逆さま上映にして天地が合ったシーンは覚えていたり、 同時にそれ以外のシーンは、どんな物質がどんな状態なのか、

    逆さまに上映したことで、ピンと来なくなったり。

    可読性や重心のような、体が覚えている視覚情報は、

    どこかを界にぱっきりと失われるんだなぁと。

    感触が失われる。 そこに敷かれている法則を体得してるからなんでしょうね。 法則の外に至った途端に、なんだかわからないものになる。

    2度目の土日を経て、ライトボックスの光が全く届かなくなった間に、

    可読性は手放されたようでした。

    それからも、そこまでぶよぶよと広がったりせず、

    どちらかというと島が波に削られるように、

    潮の満ち引きで波打ち際がずれるように、

    微々たるゆらぎをまとった不思議な形のまま漂っているような感じ。

    そうだよな、そもそも、「ぶよぶよと一定方向に進んでいく」というのは

    その「一定方向」を知っているから達成されるものであって、

    1枚毎その意識がリセットされているのだから、

    「大きくなり続ける」なんて起こらないよな。

    (逆に、何も起こっていないと認識していても、いつのまにか変化して、

     流れは生まれているもんだろう)

    たゆたう島のような「とうきょう」です。


    作画は、なんだかこれから面白くなりそうな感じのところで止まっていますね。

    これもっと繋げて4分くらいにしたら面白いんじゃないかと思うので、

    今後も折々で、いろんな方に参加して頂こうと思います。

    その際は是非またご協力ください。

    非複製性と同時に、操縦不可性も実証したいと思っていました。

    アニメーションは完全に操縦できるものとして扱われますが、

    手描きアニメーションの作業のマイクロな部分では全然そんなことはなくて、

    体を経由したシルエットは、元のイメージを完全には再現し得ないものです。

    といっても、ここは根本的なところで、

    記憶や映像思考を表出させるためのアニメーションか

    現実や手法由来の世界上で繰り広げられているアニメーションなのか

    という視点、姿勢?立場?の違いによっては、

    「そもそも体を経由して違うものになるなんて言説、実体が無いじゃないか」 と思われる人もいるかもしれません。

    前者も後者も、「イメージを可視化している」という言葉は

    当てはまるのでややこしいですが、

    前者は、脳内で思考がひとまず完結していて、そこからイメージを出力する際に一度その外部要因からの制限によってなんらかの変換がなされている構造で、

    後者は、脳内での思考が手法や完成像が前提となっているものであり、体を経由すること、あるいは経由した後からが出発点である(原始的映像思考を経由しない・する必要がない)ので、「変換される以前の、元イメージ」という扱いがそもそも無い構造なのかもしれません。

    そして私は前者で、映像思考を可視化するために仕方なく?体を経由させんとし、

    その際、物理的法則を完全に操縦することは不可能であると

    ある意味諦め、身体や道具にイメージを任せてしまうつもりでいる、らしく、

    脳内と手先とで、別の管轄として分担作業をするようなイメージで、

    統率が効かないと諦めていること、つまり完全に他人だとみなしている、

    のかもしれないらしいっぽいんですね。

    脳内映像の私という像と、手を動かしている私とは別人であると。

    それは少しだけ分裂症的思考なのかもしれません。(あくまでも「的思考」の話。)

    世の中には、私と違って、

    思考と感情と感触と身体とが、一致している人がたくさんいる。💡

    じゃ操縦不可というのは、結局、私だけの事実、

    私の、感性と身体に対する単なるスタンスなのではないかと。

    ここまで自覚するのに、なんだか結構時間がかかってしまったんです。

    それまで足を踏み込んでいた漫画やキャラクター絵師活動の中にあった、

    手法や完成像のある意味での呪縛みたいなものから、

    創作アニメーションに出会って、初めて解かれて以降、

    そこでようやく、裸で世界を感じてオッケーな体制になって

    慣れていなかったせいなのか、

    自分のセンサーがどういう性質のものなのか、それまで気付くことができなかった。

    手でしか触っちゃダメ、足でしか進んじゃダメ、前しか見ちゃダメ、

    そういう自制の中で、五感は省エネ運転を続けてきていました。

    アニメーションに出会う前にも、何かを創ろうとする人たちの中にいて、

    思考や感受性の構造が全然違うようなのだけど、

    それがなんなのかいまいち掴めないで、もやもやとしてきたけれども。

    私がぼんやりと普遍的な光かも知れないと思いはじめていたものは、

    手法や思惑のその奥深くにある、

    より原始的な映像(静止画や漫画や文字ではなく)であったけれども、

    しかしそれ自体は、「映像思考」というとある文法、言語の一つであって、

    私の五感を駆使する時に一番都合が良い認知の仕方であって、

    普遍的なものでもなんでもなかったんです。むしろ辺鄙な言語だった。

    五感の省エネ運転を解いたから、

    あぁこの考え方がやり易いと自覚できて、それが目新しくて、嬉しくて、

    それで浮かれていたんだと思う。

    自分の身体がどう出来ていて、人とどう違うのか、

    認知が他人と完全に一致しているかどうかなど、

    確かめる術はないから、私はその辺鄙さに気づかずに、

    特にあいたたぼっち以降は、むやみにその「辺鄙な言語」を

    追い求めようとしていました。

    それが普遍性の実体だと思っていた。

    この展示を経て、

    他にも展示の前後で色々とあって、

    ようやく、私の見出そうとしていた普遍性は単なる一つの言語でしかなかったこと、

    そして言語を追っても自分にとっては意味がないことに気づきました。

    言語で何を考えるか、何を話すか、何を映すかが一番大事だった。

    認知はどこまでも個人のもので、意識は肉体で隔てられているし、

    だからこそ「映像思考の出力」は特別なことで、

    その共有には感動がある。

    それは変わらないけれど、その中身をもっと、

    その言語を使って一番輝くことと、

    もっと向き合っていくべきなんだと気づきました。

    (それは多分個人的に重要な吐露や、時代に寄り添ったものなんだろうと思う)

    2012年にアニメーション専攻に入ってから毎年何か作品を出してきて、

    何気にこの1年ちょっとは、アニメーションを始めてから

    はじめて何も出していない期間です。

    生活のペースや、仕事のスタンスを整えたりもしながらの、

    半整備期間だったけれども、

    アニメーションを作ろうとしている自分を改めて客観的に捉え直すのに

    とても意義のある期間になっていて、

    意外なところからアッパー喰らって落ち込んだりもしてるんですが、

    逆に制作に追われるよりも充実を感じられる日を見つけられたりもしていて、

    今後の生き方を決めるたくさんきっかけが詰まった日々を送っていると感じます。

    年始頃から本格的に動き出すことになると思います。

    それまでもう少し、次に向かうための整備に費やします。


    2021 © Onohana / Gin_nan ni ame / UchuPeople

    sig@uchu-people.com

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