• Onohana

「とうきょう」の作画繋げました


7月に展示をしてから、丸3ヶ月も経ってしまいました。

すっかり遅くなってしまった。

忘れてしまった方もいるのかも。すみません。3ヶ月あっという間。

改めて、ご来場いただき、作画体験に参加していただき、

本当にありがとうございました。

制作過程に他人のイメージや行動を挟むこと、

イメージが自分以外の領域へ向かって変化することに抗わないこと、

そういう手放しにする実践させていただいて、

アニメーションが何者だと考え得るのか、私がどこにいたのかを、

改めて考える機会をいただきました。

会場に設置した作画体験コーナーで、

ゾウリムシみたいなミドリムシみたいなアメーバみたいな絵を

作画していただいたんですが、

あれはもともと「とうきょう」というただの文字でした。

狙いとしては、

「歴史認識の維持のむずかしさについて」、

「現実の身体と想像された映像との差について」、

「作画を体験してもらおう」

が主なものでした。

「とうきょう」と書き続けたつもりでもいつのまにか全然違うものに変わること。

1枚描いたものが1秒のうちのどれほどの一瞬であるか、また、

作画から連想された動きがどれほど素早く滑らかでも、作画する手は生身のスピードでしか動かないこと。

それを実際に体験して、個々人のリアルタイムに

落とし込んでみてもらいたかったんです。

「なるべくそのままをなぞって下さい」と立て看板をしました。 なるべくそのままなぞる方もいれば、アレンジを加える方もいました。

なるべくそのままなぞっても、

紙を1枚隔てて見える影から濃度を完璧に再現することは難しいもので、

1枚1枚はそれぞれ全然違う表情になりました。

重なった紙の枚数によっても、なぞられる影は違うものが選ばれたかもしれません。

会期2週間のうち、前半の金曜日くらいまでは、なぞられてある程度形が変わっても

可読性のセーブが働いていたのか、それほど不思議な形にはなりませんでした。

でも2度目の土日を挟んで以降の後半の会期では、

可読性がどこからか解除されて、どんどん違う形になっていきました。


これは会期最後の1枚です。

最初の一枚の直後と、会期最後の1枚は、私が自分でなぞりました。

なぞる、という意識と、「もともとあの形なんだよな〜〜」と思い浮かべる像とが、

ちっとも交わらなくて、 ただひたすら「なぞる」に徹しながら、元々の「とうきょう」の形が

物理的に溶けていったような感触を思いました。

前の1枚を完璧になぞったとしても、 鉛筆の設置面や、筆圧、書き順、重心などで全く同じ絵にはならないという、

手描き作画の非複製性を証明したくて設置しました。

どんどんぶよぶよな形に溶けていくんだろうなぁと予想していましたが、

「可読性」のセーブが働いて、しばらくは文字から離れない、

というのは予想していませんでした。

どんどん大きく広がって、紙の外にはみ出さんばかりに

なるんじゃないかと思っていたのに。

そんなに大きくなることはなく、サイズも可読性も保たれたシルエットが続き。

「と」が「そ」になってまでもまだ文字のまま。

文字に限らず、様々な形への認識にも多少、

そういう体感的な理解の反映があるんだろうと思います。

会場で展示していた『such a good place to die』の逆さま上映も、

重心の認識は作画に現れていて、

天地逆さまに作画して、逆さま上映にして天地が合ったシーンは覚えていたり、 同時にそれ以外のシーンは、どんな物質がどんな状態なのか、

逆さまに上映したことで、ピンと来なくなったり。

可読性や重心のような、体が覚えている視覚情報は、

どこかを界にぱっきりと失われるんだなぁと。

感触が失われる。 そこに敷かれている法則を体得してるからなんでしょうね。 法則の外に至った途端に、なんだかわからないものになる。

2度目の土日を経て、ライトボックスの光が全く届かなくなった間に、

可読性は手放されたようでした。

それからも、そこまでぶよぶよと広がったりせず、

どちらかというと島が波に削られるように、

潮の満ち引きで波打ち際がずれるように、

微々たるゆらぎをまとった不思議な形のまま漂っているような感じ。

そうだよな、そもそも、「ぶよぶよと一定方向に進んでいく」というのは

その「一定方向」を知っているから達成されるものであって、

1枚毎その意識がリセットされているのだから、

「大きくなり続ける」なんて起こらないよな。

(逆に、何も起こっていないと認識していても、いつのまにか変化して、

 流れは生まれているもんだろう)

たゆたう島のような「とうきょう」です。


作画は、なんだかこれから面白くなりそうな感じのところで止まっていますね。

これもっと繋げて4分くらいにしたら面白いんじゃないかと思うので、

今後も折々で、いろんな方に参加して頂こうと思います。

その際は是非またご協力ください。

非複製性と同時に、操縦不可性も実証したいと思っていました。

アニメーションは完全に操縦できるものとして扱われますが、

手描きアニメーションの作業のマイクロな部分では全然そんなことはなくて、

体を経由したシルエットは、元のイメージを完全には再現し得ないものです。

といっても、ここは根本的なところで、

記憶や映像思考を表出させるためのアニメーションか

現実や手法由来の世界上で繰り広げられているアニメーションなのか

という視点、姿勢?立場?の違いによっては、

「そもそも体を経由して違うものになるなんて言説、実体が無いじゃないか」 と思われる人もいるかもしれません。

前者も後者も、「イメージを可視化している」という言葉は

当てはまるのでややこしいですが、

前者は、脳内で思考がひとまず完結していて、そこからイメージを出力する際に一度その外部要因からの制限によってなんらかの変換がなされている構造で、

後者は、脳内での思考が手法や完成像が前提となっているものであり、体を経由すること、あるいは経由した後からが出発点である(原始的映像思考を経由しない・する必要がない)ので、「変換される以前の、元イメージ」という扱いがそもそも無い構造なのかもしれません。

そして私は前者で、映像思考を可視化するために仕方なく?体を経由させんとし、

その際、物理的法則を完全に操縦することは不可能であると

ある意味諦め、身体や道具にイメージを任せてしまうつもりでいる、らしく、

脳内と手先とで、別の管轄として分担作業をするようなイメージで、

統率が効かないと諦めていること、つまり完全に他人だとみなしている、

のかもしれないらしいっぽいんですね。

脳内映像の私という像と、手を動かしている私とは別人であると。

それは少しだけ分裂症的思考なのかもしれません。(あくまでも「的思考」の話。)

世の中には、私と違って、

思考と感情と感触と身体とが、一致している人がたくさんいる。💡

じゃ操縦不可というのは、結局、私だけの事実、

私の、感性と身体に対する単なるスタンスなのではないかと。

ここまで自覚するのに、なんだか結構時間がかかってしまったんです。

それまで足を踏み込んでいた漫画やキャラクター絵師活動の中にあった、

手法や完成像のある意味での呪縛みたいなものから、

創作アニメーションに出会って、初めて解かれて以降、

そこでようやく、裸で世界を感じてオッケーな体制になって

慣れていなかったせいなのか、

自分のセンサーがどういう性質のものなのか、それまで気付くことができなかった。

手でしか触っちゃダメ、足でしか進んじゃダメ、前しか見ちゃダメ、

そういう自制の中で、五感は省エネ運転を続けてきていました。

アニメーションに出会う前にも、何かを創ろうとする人たちの中にいて、

思考や感受性の構造が全然違うようなのだけど、

それがなんなのかいまいち掴めないで、もやもやとしてきたけれども。

私がぼんやりと普遍的な光かも知れないと思いはじめていたものは、

手法や思惑のその奥深くにある、

より原始的な映像(静止画や漫画や文字ではなく)であったけれども、

しかしそれ自体は、「映像思考」というとある文法、言語の一つであって、

私の五感を駆使する時に一番都合が良い認知の仕方であって、

普遍的なものでもなんでもなかったんです。むしろ辺鄙な言語だった。

五感の省エネ運転を解いたから、

あぁこの考え方がやり易いと自覚できて、それが目新しくて、嬉しくて、

それで浮かれていたんだと思う。

自分の身体がどう出来ていて、人とどう違うのか、

認知が他人と完全に一致しているかどうかなど、

確かめる術はないから、私はその辺鄙さに気づかずに、

特にあいたたぼっち以降は、むやみにその「辺鄙な言語」を

追い求めようとしていました。

それが普遍性の実体だと思っていた。

この展示を経て、

他にも展示の前後で色々とあって、

ようやく、私の見出そうとしていた普遍性は単なる一つの言語でしかなかったこと、

そして言語を追っても自分にとっては意味がないことに気づきました。

言語で何を考えるか、何を話すか、何を映すかが一番大事だった。

認知はどこまでも個人のもので、意識は肉体で隔てられているし、

だからこそ「映像思考の出力」は特別なことで、

その共有には感動がある。

それは変わらないけれど、その中身をもっと、

その言語を使って一番輝くことと、

もっと向き合っていくべきなんだと気づきました。

(それは多分個人的に重要な吐露や、時代に寄り添ったものなんだろうと思う)

2012年にアニメーション専攻に入ってから毎年何か作品を出してきて、

何気にこの1年ちょっとは、アニメーションを始めてから

はじめて何も出していない期間です。

生活のペースや、仕事のスタンスを整えたりもしながらの、

半整備期間だったけれども、

アニメーションを作ろうとしている自分を改めて客観的に捉え直すのに

とても意義のある期間になっていて、

意外なところからアッパー喰らって落ち込んだりもしてるんですが、

逆に制作に追われるよりも充実を感じられる日を見つけられたりもしていて、

今後の生き方を決めるたくさんきっかけが詰まった日々を送っていると感じます。

年始頃から本格的に動き出すことになると思います。

それまでもう少し、次に向かうための整備に費やします。


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