• Onohana

個展を前に


アニメーション・パレットの地方巡回上映会4年が無事終わり

(ご来場くださった皆様ありがとうございました。)、

新宿眼科画廊での個展が近づいてきて、

私の中で、ますます、自分の作品が一人歩きしていくことに

振り回されるような気持ちが大きくなってきている。

これは、「私の世界を鑑賞者が正しく理解できていないジレンマ」ではない。

「アニメ・クリエイターになりたい人だと思われているジレンマ」だ。

私の作品は、物語と抽象とで全く相貌も文法も違うため、

そのふたつを作り続けることにどんな関連があるのか、

一目で見抜く人はほとんどいないのは事実である。

時にファッションに見られ、時に一発芸に見られ。

それほどに、アニメーションの表現がまだまだ広く知られていないということだ。

私が抽象を描き続ける理由は、 体の形を持って思考することだけでは足りないからだ。

形も時空も次元も飛び越えた運動・思考が、抽象アニメーションでは可能だ。

これは人間の進化の末にようやく獲得した共鳴的イマジネーションの

最も美しい姿だとすら思う。

私が物語を描き続ける理由は、

人の姿や現実認識の客観視と、記録、という効力から

人間の仕組みについてを考える、最も近道で

そして最も強い方法だと思うからだ。

私は人間として生まれ生きているから人間のことを見つめないわけにはいかない。

人間にはいろんな瞬間がある。

美しかったりうまくいっている時だけが人間じゃない。

うまくいかないまま死ぬこともある。

心の中に適所で着地点を設けられる人ばかりじゃない。

わからないまま死ぬ、知らないまま苦しむ、美しさに傷つく、

わかっていて苦しめる、わかったつもりで傷つける、

傷が見えてすらいない、死んだことに気づかない、殺したことにも気づかない、

そんな繋がりも、間違いなくこの社会を作っている。

それが描きたい。

アニメーション表現者として今まで少ないながらもいくつか映画祭に出て、

私の作品はどうして「感動的なオチがない」と蔑まれなければならなかったか。

どうして「意味をわかってもらう気がない」と指差されなければならなかったか。

「お金を払ったからには気持ちよくなりたい」という貧しい消費者心理が

映画配給に大きく影響して批判も評価も腐ったものになってはいないか。

文化評価の尺度を額面以外で見失った業界内部が

同じ衝動を持った同士のみで評価体制を整えようと

時に排他的な思想を用いてまで繋がりを保ってきてはいないか。

私は今まだアニメーションを始めて数年、

大きな賞をいただいた「澱みの騒ぎ」は、始めて2年しか経っていなかった。

機材を扱うのもやっとで、アニメーションに特化した編集方なんて知りもしない。

そういう技術面を指摘されるのはわかる。

ただ私への苦言の多くは「絵が下手だ」「オチがない」「共感させる気がない」、

そんな表現姿勢自体への忠告や、

「売れない作風だとわからないのか」「売り方が下手で応用が利かない」とか、

「苦しいことがあって、それを吐き出したかったんだろう」という

自分本位な吐露であるという前提を敷いた上で

「何が言いたかったの?」と聞いてくる評論家もいる。

評論家への私の期待がただ大きすぎるのだろうか、

作品を全編観たなら、そのコンテ切り、アングル、描写、枚数、色数、

ブレの具合、音、声、キャラクターのシルエットや演技、時間理念、

またそれらの崩しから、多少なりとも考察して、

わからないことに対しては様々な見識から、

いくつかの解釈の方向の可能性を含んだ上で

「ここはこういう風に見えるが、どういった経緯が?」なら

こちらも作品を上映する意味があろうが、まず真っ先に

「アニメでは通用しないくらい絵が下手だ」という判断で遮断されることもあり、

またあろうことか「個人的な悩みには私はむやみに触れるつもりはないけれども」

といったそぶりで「あなたはエンタメもアニメもわかってないね」と

あるいは「全然理解も共感もできない次元にいる、人間の心持たざるもの」という

悪い評価をわざわざ伝えてくる評論家もいる。

動いていないものが動いて見えるようになるアニメーションという手法が、 巨額な興行収入を叩き出す「アニメ」と同義だなどと

どうして疑いもせずに研究者・評論家などと名乗れるのか。

どの時代にも、新しい表現に対しては懐疑的な伝統踏襲派がいて

少なからず摩擦はあった。

しかし現代は歴史も思考も拓けている(はず)だ。

何かしらの流派が全体の一部でしかないこと、

そして多様な解釈と想像が世界には必要だという価値観を、

いつまで取り入れられないままでいるつもりなのか。

そしてその多様性は、多様性を受け入れ尊重し合う感性は、

人間社会が、人の暮らしのある社会であるために、

この先絶対に育てて行かなければならないものなのだ。

歴史も表現も、ひらかれていなければならないのだ。

アニメーションは、

1秒に24テイク、1テイクに数百の時間を往復する

濃密な時間を思考されうる表現である。

1枚1枚の思考は描き終えられた途端に停止・独立し、

それらの一連に、目から脳へと繋がる肉体が魂を宿す。

アニメーションを引き起こしているのは「目」と「脳」であって

「かぶいたキャラクター」や「美少女」まして「感動物語」ではないことなど

今更誰もつっこみもしない。

しかし、未だに日本でのアニメーションへの期待は

外からも、多数を占める内側の一部からも、

「より分かりやすく楽しい、超絶想像力の舞うエンタメ」だ。

しかも「超絶想像力」は、

「わかりやすい線と色」「美貌」「伏線」「爆破と破壊」「絆」「笑い」であって、

既知の方法を取らずに導き出された「新しい視点や形」のことではない。

評価・研究する側の一部も、「アニメ」と「アニメーション」の

分別をないがしろにしたまま、むしろ自覚のじの字もないままに、

「その地域を代表する映画祭」と称して「アニメーション作品」を募集したりする。

そこで「超絶想像力の舞うエンタメ」の促進が図られる。

息も絶え絶えな経済社会が欲してしまうのは、

みんなが一瞬で一斉に同じ表情になれる号令としての映画・ドラマであるし、

経済社会での成功や、号令としての効力を、

制作のモチベーションやメリットに掲げる

クリエイター、プロデューサーも、悲しいかな数え切れないくらいいる。

(もちろんコンセプトによって手法は有益にもなりうる)

アニメーション・クリエイターと、表現者と、

このふたつも同義ではないのに、同義として見られるか、

あるいは主に後者が「自己表現」という言葉で片付けられ、

クリエイター志望の枠内に収められてしまうことが多いのだと思う。

より思考・研究のいらない体制で、

真意はともかく自明であると「断言」してしまう労力の方が、

答えの見えない挑戦を続けたり、調査研究をし尽くしたり、

それに期待したり正しく評価することよりも、

ずっと楽に済むんだろう。

そういう「社会」になってしまった。

私は、ただただ人間は美しい、人間は素晴らしいと賛辞することに対して

非常に懐疑心を持っているし、

多くの人が信じて疑わないことの矛盾を突き詰めていきたい。

小手先の美しさ面白さで競争する気などさらさらない。

私はただただ想像力が伸びた先に現れた世界を、

見えた通りに捉えようとし、

そしてそれに向かって真摯に話尽くし、

その正体がなんなのかを掴んでいくこと、理解すること、

そうすることで人間の本質や多様性について考え受け入れていくことを、

アニメーションを介して行なっているつもりである。今までもこれからも。

そうして見えてくる人間の強さ・儚さの方が、

定形で仕組まれた幸せな物語よりずっと美しい。

過去の作品は、拙い構成ながらも

あの結末が世に出すのに最もふさわしいと思っている。

言わずもがな自分の悩みを打ち明けたのではない。

「自分」ももちろん人間の一部だから、根拠になる部分はある。

しかし内向的に個人的世界観を構築したのではなく、

人間に起こりうる現象を、アニメーションに乗って渡り歩いたのだ。

それは「私」のことではなく「人間」の話だ。

内向ではなく、あくまでも視野はそこを突き抜けて空へ外へ向かっている。

安易に感動を求めたその人の世界でもある。

誰にとっても一寸先にある世界だ。そう思って作っている。

そこで、どうして「上手な絵に満たないもの」に定義されなければならないのか、

どうして「オチがない」と定義されなければならないのか、

どうして結末が「幸せにならなければならない」のか、

どうして「いろんな人が見るのだから自重しなければならない」のか。

そういった考えなしの一般論に、

私は矛盾を呈していきたいんだということに年々気づいてきているし、

そして、人間について熟考する機会を社会に点在させたい気持ちもあるし、

アニメーションのチカラをもっと引き出していきたい。

人間の生死を飛び越えた視野で世界を捉えていきたい。

だから私は、クライアントのいない新作を発表し続けるし、

抽象と物語どちらかに絞ってセルフマネジメントをしやすくするつもりもない。

アニメーションという思考方法と

サシで付き合っていくのだ。

(決意表明)


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