• Onohana

個展『ぼくと魚』

4月13日から5月12日まで、

岩手県盛岡市の Cyg art gallery さんにて

ドローイングの小作品をまとめて展示していただいてました。


今回は、GWの期間をまるまる包み込んでの

単独開催とのことで、非常にありがたい機会をいただき、

すでにたくさんの方にお越しいただいてるようで、嬉しく思います。





今回の展示のコンセプトは、

『日記』と『想像する相手』です。


『日記』は、SNSからイメージを得ています。

Twitterやfacebook、instagram、TikTokなど、

短い文章や、画像や映像で、自分や日々を綴ることが一般的になりました。


それと同時に、

各種のニュースとか、電車の遅延の情報とか、

迷子のお知らせとか、今月の県内の事故件数とか、

営業の電話とか、道路脇の生花とか、

そういった、形式の先に生身の人が存在する情報もあふれています。


それら全ての中にいる「ひと」について、

友人知人のように親身に想像することはあまりないと思います。


あふれすぎた情報は受け止めきれなくなるし、

心はさらに柔い。


ただ、役割と重要度によってフィルタリングしたとしても、

自分にとっての「知らない人」が

「知るに値しない人」だとか、

「知るほどのきっかけが生まれない人」

「重要度の低い人」だとは誰も言えません。

まして「存在しない」とも。



それは『見る』ことの力が左右する世界です。


『見る』は、ただ視野に入ってくるだけのことではありません。

視野に入っていても、「それはなんだ」と意識しなければ、

存在を見逃している本人にとっては、いつまでも

「感じ取れないもの」「存在しているように見えないもの」です。


『見る』とは、

存在を意識し認め、考える、想像するという

積極的・能動的な行為だと考えたら、

「どう見ようとするか」がいかに重要かが、

なんとなくわかると思います。


目に入ってきた、接触があった、だから見た、知った、という、

受け身で世界を見るのではなく、

積極的に世界を見ることで、

積極的にその人を人として見ることで、

人はお互いを人として存在させることができるというのは、

あながち本当のことだと思うのです。


そう感じながら、同時に、

「見たいもの」だけを「見る」ことの危うさ、

自分の知る範囲の中だけで『見なす』ことの危うさも、

感じ取らなきゃなりません。


「不謹慎」「無愛想」「非常識」「不適切」「不親切」

そういった言葉を用いて『見なす』ことはとても簡単です。

ただそれらは、主観と形骸化した価値観から

切り離しきれないことを意識しなければなりません。


その認識は本当に「見る」ことを怠らずにして導き出されたことなのか、

それとも「見ない」ことで単純化・矮小化させて断定したことなのか。


どこまでもどこまでもせめぎ合いながら、

つかみどころのない世界まで、

その探求は続いているはずなのです。


だって自分は自分にしかなれないから。

自分の視野しか持てないから。


自分には掴めない、掴む権利のない領域まで、世界は広がっている。



そう考えると、

「知らない人」も、私と同じ世界にいることを

なんとなく前よりちょっとリアルに感じられませんか。

ませんか。


誰かにとっての私が、そんな「知らない人」であること。

私にとっての「知らない人」が、

「知らない人」にとっての「自分」であること。


『想像する他者』が、誰かにとっての自分であり、

世界であること。



そんな気持ちで制作しました。



この考えは、物語アニメーションを作るときの心構えそのもので、

私の作品はよく「自己表現」だと誤解されやすいのですが、

実はむしろ「他者」と向き合うことで世界を見つめていくやり方です。


世界の中にはもちろん私も存在しているので、

わざわざ世界から私を取り除いて考えることはしないものの、

あくまでも自分のことや気持ちを表現しているのではなく、

「そう感じる人がいる」という世界を描いています。


アニメーションでは、演技・動かしをするので、

自分がその他者になりきることで、時間表現を紡いでいきますが、

今回は、ドローイング。


あくまでも、たくさんの「知らない人」を、

影から読み取っていく、見ようとしていくという作業ができました。


誰かモデルがいるとか、

自分のエピソードが混じっているとか、そういうものはありません。







そのため、不思議なものですが、

私にとっても、あのドローイング群は、

親しみのある風景とか、思い入れのある言葉とか、

フェチズムが反映されているものとかではなく、

つまり「私の作品」「私の人たち」という気持ちよりも、

あくまでも「ちょっと知ってるくらいのたくさんの人たち」という感覚があります。


私自身が人見知りの傾向もあるので、

むしろなんかちょっと後ろめたいくらいの感覚で。


それくらい明確に「他人」という気持ちが芽生えたということは、

試みは成功しているのかなと感じるのです。

自分の実感としてです。



「見たい」とか「見たくない」に左右されないように、

描写技術的な趣向は出来るだけ凝らしませんでした。

特徴を無くしたかった。形容しがたい絵にしたかった。

時間をかけて拵えたものにしたくなかった。


「知らない人」を描くのに、

描く私が「このディティールが好き」とか「美しい」とか

そういうものを頼りにしてしまったら、全部淀んでしまう。

人格がフィルタリングされてしまう。


だから、あくまでも何でもない「かげ」と「ゆらぎ」で描きました。

「絶対に誰か」なので、私が「誰である」と特定しないように。





『日記』と『想像する他者』というコンセプトの中で、

特に約90点のフレーク作品の方は、

「1日を振り返って200文字くらいでまとめた日記」で、

12点のフレーム作品の方は、

「対話をしている30秒間」というイメージです。


なので、フレーク作品の方がちょっと

「語り」の雰囲気が出ていると思います。

フレーム作品の方が刹那的なはずです。

瞬時の対話の方が、振り返って認識するよりも

曖昧なまま流れていくと思うので、

抽象度は高くなりました。



私が今回達成したかったのは、特に後者、

フレーム作品の方でした。




先の秋に石神の丘美術館さんで、

抽象風景のドローイングとアニメーションの過去作の展示をさせて頂いた時に、

「私のドローイングはあくまでもアニメーションになる前提を持った

 未完成のイメージボードでしかない」

という感覚にぐわっと飲まれてしまい、

前後のコマに繋がる必要のない、

1枚で成立している、存在できるドローイング作品を作らねばならない

と、何故か焦ったのです。


多分、動かすということに依存したくなかったんだろうと思います。

表現したいことが技術を選ぶことはあっても、

技術のために表現の内容を変質させたくなかった。



だから、今回Cygさんでドローイング展をやらせていただけて、

このフレーム作品12展を描くことができて、

ひとつ達成感がありました。

あのフレーム作品の世界は、あのフレームの中からだけ見えるものです。

それがアニメーションを経由する必要なく、世界につながっている。

それが今回の理想でした。






この絵は、アニメーションにする必要がないなと感じています。

「人を見る」という行為そのものをドローイングとして昇華できた。現時点での。 「人を見る行為」は、

私にとっては作る行為、表現することそのものであり、

私の物語アニメーションを作る原点であって、

同時に、世界に存在しようとする意識です。





Cygさんでの個展、今週末12日で最終日となります。

グッズも並べて頂いています。


ぜひお越しください。



- - - - - -


小野ハナ個展

「ぼくと魚」


2019.4.13(土)‒5.12(日)

11:00–19:00/水曜定休


Cyg art gallery


入場無料



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